とうとう次郎長三国志の最終部となってしまった。次郎長の物語は、石松が死んだ時点でひとつの終着点だと思うが、石松の仇ということで、都鳥三兄弟を討ちに行く。
思っていた以上に、ドラマは面白かった。しかし、新しい要素を入れなければならなく、吉良の仁吉が登場してくる。吉良の仁吉は魅力的な人物像が描かれていたが、その話しを推し進めるには、また何本もの映画が必要かもしれない。それが、このシリーズが終わりになった理由かもしれない。区切りのいいところで。
仇討ちとなると、怨念のたまった暗い暴力的なものと想像しがちだが、それを裏切ってくれるところが面白い。
やはり次郎長一家には、喧嘩の際でも歌が必要なのだ。そして、ワッショイワッショイの掛け声が必要なのだ。その活気が仇討を明るいものとしてくれる。
農民の誤解を解くところに話が費やされていて、なかなか進まないところにもどかしさを感じるところはあるけど、そのぶん登場人物の小話というか、特徴ある姿や行動に費やされるのは観ていて楽しい。
しかし、シリーズ後半になると、さすがに人物描写だけではもたないのだろうか、シリーズ後半になればなるほど、次郎長一家としての集団に焦点があたる。集団として、次郎長一家の性格が描かれている。そのぶん個人の特徴や逸話は語られなくなるのが惜しいところではあるけれど。
ひとつおもしろいところを発見したのだけど、戦闘の場面の悠長な次郎長一家ほどおもしろいものはない。
歌を歌うところもそうだし、相手に油断させるよう馬鹿をするところもそうなのだが、今回のチャンバラは映画とはいえ、完全な虚構としての戦闘になっていた。集団として押しまくる、かと思えば、農民たちをなだめるために引いてきてお詫びをいう。敵が寄せたらまた押しまくる。
戦闘のリアリズムならそんな暇はない、敵を全滅させるか退散させてから農民との話にくる。虚構としての戦闘なら、それを同時に行う。敵を追い詰め、農民との交渉で引く、敵がまたやってきたら戦う。
その虚構としての戦闘が、ドラマを盛り上げていることは間違いない。ふたつのモメントをひとつにまとめ、同時にこなすことで、場面全体のダレがない。
思っていた以上に、ドラマは面白かった。しかし、新しい要素を入れなければならなく、吉良の仁吉が登場してくる。吉良の仁吉は魅力的な人物像が描かれていたが、その話しを推し進めるには、また何本もの映画が必要かもしれない。それが、このシリーズが終わりになった理由かもしれない。区切りのいいところで。
仇討ちとなると、怨念のたまった暗い暴力的なものと想像しがちだが、それを裏切ってくれるところが面白い。
やはり次郎長一家には、喧嘩の際でも歌が必要なのだ。そして、ワッショイワッショイの掛け声が必要なのだ。その活気が仇討を明るいものとしてくれる。
農民の誤解を解くところに話が費やされていて、なかなか進まないところにもどかしさを感じるところはあるけど、そのぶん登場人物の小話というか、特徴ある姿や行動に費やされるのは観ていて楽しい。
しかし、シリーズ後半になると、さすがに人物描写だけではもたないのだろうか、シリーズ後半になればなるほど、次郎長一家としての集団に焦点があたる。集団として、次郎長一家の性格が描かれている。そのぶん個人の特徴や逸話は語られなくなるのが惜しいところではあるけれど。
ひとつおもしろいところを発見したのだけど、戦闘の場面の悠長な次郎長一家ほどおもしろいものはない。
歌を歌うところもそうだし、相手に油断させるよう馬鹿をするところもそうなのだが、今回のチャンバラは映画とはいえ、完全な虚構としての戦闘になっていた。集団として押しまくる、かと思えば、農民たちをなだめるために引いてきてお詫びをいう。敵が寄せたらまた押しまくる。
戦闘のリアリズムならそんな暇はない、敵を全滅させるか退散させてから農民との話にくる。虚構としての戦闘なら、それを同時に行う。敵を追い詰め、農民との交渉で引く、敵がまたやってきたら戦う。
その虚構としての戦闘が、ドラマを盛り上げていることは間違いない。ふたつのモメントをひとつにまとめ、同時にこなすことで、場面全体のダレがない。
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