何も刺激のない生活というものは、味気ないものだ。生活というその言葉は、外界から多くの刺激を受けるということを指すのだろうか。それはどんな刺激でもいい、近所の人とのあいさつでも、会社の同僚でも、もしくは人でなくてもいいかもしれない。ペットと1日をともにしたり。または、刺激は書物などでもいいかもしれない、テレビでもいいかも、とにかく自分とはまったく別の要素からの刺激。
刺激の少ない生活ほど印象にも残らないものだ。多すぎても残らないが…。
しかし、自分の体調の機嫌を取りながら、そればかりを気に掛ける、昨日・今日の風邪をひいた生活はつまらないものだ。生きた人間とのやりとりも、ほんの少しだけだし、何よりも、体調を保つことだけに気を集中しなければいけないのがつらい。こんな日は、自分が何をして過ごしたのかさえ確かなものではない。
非常にナイーブなことを考えるのもこんな日の特徴で、自分のしていること、しようとしていること、自分の存在に不安をおぼえてしまう。あんなことして、何の意味があるのだろうなんて。
こんな状態にとどまっていないようにしなければ。案外楽な発想方法なんだと思う、自分を責めるのって。そんな考えで悲観的になっていれば、世の中のことを全部説明がつけるような錯覚を起こす。何ひとつ現実のことと接触していないにもかかわらず、形而上的に整理整頓できると勘違いしてしまうのは、人間だれしも起こることだ。思い切って行動したことが、そんな形而上的な迷いごとを振り切ってくれるはずだ。
人間関係も希薄になった今日この頃、という表現をみかけるが、確かにその要素はあるだろう。以前のような、べったりの付き合いを逃れたり、煩わしいことを軽くすましてしまう傾向は確かに世の中にある。おそらく、自己を保全しているのだろうが、そのぶん外界からの刺激も遮断される。ヘッドホンの中だけで過ごす人に加え、最近では携帯画面との間でしかコミュニケーションしていない人が多くなってきている。駅を歩いていても、携帯の画面にしか注意を払えない人。
コミュニケーションの方法が変わってきているなかで、どうしても局所的に、専門的にしか接触できないとすると、やはり、先に言った「ナイーブな考え」というものが頭をもたげてくるのだとは思う。テレビとしか接触しない人、携帯としか接触しない人、ペットとしか接触しない人が、その安楽の中で増えてくるのは仕方がないこととは言える。
しかし、まだまだ一人の人間にとって、外の世界は刺激の多いものであることには変わりはないだろう。それを常に遮断するのはもったいない。ささいなはけくちでもいいから、外からの刺激を受ける環境を持ちたい。そんな環境を作り出すことが人間にできるささやかな行動だと思う。受けた刺激がたいしたものでなくても、逆に、悪影響だったとしても、ナイーブな安楽椅子に座って世界を見渡せたつもりでいるよりは、幸福であろうと思う。
ま、こんなことを、軽い風邪ひきの家にこもった人間が考えている。こんな考えをすることも、安楽な考えだととらえてもおかしくない。早く健康になって、実行に移すのがよいことだ。常に外向きのベクトルで行動することだ。
刺激の少ない生活ほど印象にも残らないものだ。多すぎても残らないが…。
しかし、自分の体調の機嫌を取りながら、そればかりを気に掛ける、昨日・今日の風邪をひいた生活はつまらないものだ。生きた人間とのやりとりも、ほんの少しだけだし、何よりも、体調を保つことだけに気を集中しなければいけないのがつらい。こんな日は、自分が何をして過ごしたのかさえ確かなものではない。
非常にナイーブなことを考えるのもこんな日の特徴で、自分のしていること、しようとしていること、自分の存在に不安をおぼえてしまう。あんなことして、何の意味があるのだろうなんて。
こんな状態にとどまっていないようにしなければ。案外楽な発想方法なんだと思う、自分を責めるのって。そんな考えで悲観的になっていれば、世の中のことを全部説明がつけるような錯覚を起こす。何ひとつ現実のことと接触していないにもかかわらず、形而上的に整理整頓できると勘違いしてしまうのは、人間だれしも起こることだ。思い切って行動したことが、そんな形而上的な迷いごとを振り切ってくれるはずだ。
人間関係も希薄になった今日この頃、という表現をみかけるが、確かにその要素はあるだろう。以前のような、べったりの付き合いを逃れたり、煩わしいことを軽くすましてしまう傾向は確かに世の中にある。おそらく、自己を保全しているのだろうが、そのぶん外界からの刺激も遮断される。ヘッドホンの中だけで過ごす人に加え、最近では携帯画面との間でしかコミュニケーションしていない人が多くなってきている。駅を歩いていても、携帯の画面にしか注意を払えない人。
コミュニケーションの方法が変わってきているなかで、どうしても局所的に、専門的にしか接触できないとすると、やはり、先に言った「ナイーブな考え」というものが頭をもたげてくるのだとは思う。テレビとしか接触しない人、携帯としか接触しない人、ペットとしか接触しない人が、その安楽の中で増えてくるのは仕方がないこととは言える。
しかし、まだまだ一人の人間にとって、外の世界は刺激の多いものであることには変わりはないだろう。それを常に遮断するのはもったいない。ささいなはけくちでもいいから、外からの刺激を受ける環境を持ちたい。そんな環境を作り出すことが人間にできるささやかな行動だと思う。受けた刺激がたいしたものでなくても、逆に、悪影響だったとしても、ナイーブな安楽椅子に座って世界を見渡せたつもりでいるよりは、幸福であろうと思う。
ま、こんなことを、軽い風邪ひきの家にこもった人間が考えている。こんな考えをすることも、安楽な考えだととらえてもおかしくない。早く健康になって、実行に移すのがよいことだ。常に外向きのベクトルで行動することだ。
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